| ヒューマンシールド神戸 吉村誠...'s profileヒューマンシールド神戸 吉村誠司の地球日記ブログPhotosBlogLists | Help |
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6/24/2009 嵐の新月、霊峰の麓へ人通りの少ない神戸市長田区の菅原市場のメインストリート跡地の拡幅された道路。 阪神淡路大震災の発生2年前、1993年6月17日に、人生の師であるOさんは、一人石川県側から霊峰の白山に登り山頂の山小屋に宿泊し、岐阜県側に翌日下山していった。 残雪が残る山頂小屋の主は、「あっち方向に雪上をひとり歩いて行きました。まだ山開き前だったので、心配でした・・・」と最後の見送りの様子を語った。 当時、国分寺市議会の6月議会最中だったが、議長に「捜索の為に欠席をします」と届け、19日早朝からの県警などとの捜索活動に合流した。(先輩議員からは、私の提案意見書もあった関係で、急な欠席は懲罰になるのでは、と議運で意見が出されたというが、了解されたという。) 捜索では、操縦士の表情が判るほどの低空飛行のヘリコプターが飛び交う中、私は捜索隊と登山道を隠している残雪を越えて山頂までの往復や谷間への道、雑木など数日捜索した。夜の山頂は、かなり冷え込み気持ちが焦った。 そして、Oさんの手がかりがまったく無いまま、72時間の壁を越えて23日に撤収となった。その悲しみの思い出の日が、この新月の日だった。 後日、家族の方から、捜索のお礼に「良かったら使ってください・・・」と遺品のピッケルをいただいた。「もし、Oさんがこのピッケルを持って登っていれば、残雪を乗り越えて下山できたのではないだろうか・・・」と想像した。 あれから、17年の月日が流れたが、時が止まったままだ。不思議なことに、この霊峰白山では、以前にも中学生が行方不明になったままだという。 嵐の豪雨は早朝には去ってゆき、麓でピッケルを立てて、合掌し花を添えて帰路へ・・・・ 山が深い
細く長く‥‥元気村・移動サービスの自称おっちゃんです! 細く長く その2 細く長く その3 神戸のある大学で募金活動が行われている。 6/23/2009 車椅子が欲しい‥‥と神戸の貴重な時間に、復興住宅を訪ねる。 「車椅子がどこかに無いかな?」自分で歩くのがしんどくて・・・・ 思いがけない言葉に、移動サービスの関係者に情報・物品提供のお願い電話をつなぐ。 その後、支援の原点だった長田区を廻ったが、思いがけない方々が亡くなっていた。最後の言葉も交わせないまま、去っていった自分を思い出す。 15年という歳月は、確実に多くの方々の寿命を迎えることになっているが、寿命の長さや短さが地震と復興の影響でどう変わったのか、誰にもわからないのだろうか・・・ 2兆7千億以上の市債を抱える神戸市、地震後の検証は、いかがだろうか?無関心の風が吹く中、兵庫県知事選挙の最中だった。
1/20/2009 本州最南端の小学校より「もし地震がおきて、津波が来るかも知れないと分かっていても、足が悪いから2階に避難しているかもしれない・・・」
と串本町で生まれ、歳を重ねた高齢の女性はつぶやいた。「どうすればいいのでしょうか?」
行政のマニュアルでは、まず避難優先とあったが、間近に海が迫る住宅地から走って逃げるにはいろいろと困難が予想される。まして、夜中だったりすると、想像するだけで怖い。
小学校での授業をする前日に、「阪神淡路大震災を思っての座談会」でのことだった。幅広い層での参加者と今後想定できる対策とイメージを阪神淡路、鳥取西部、中越、岩手宮城内陸地震の事例などを紹介しつつ語った。
危険度判定士の張り紙、その貼られた色に連携するボラセンのボラ派遣の現状について、津波の想定、液状化、ブロック壁の劣化について、孤立集落の避難のあり方などなど、そして、今後は定例に話す場を作ってゆきたいと主催者は語り会を終えた。
翌日、気温が15℃にもなる陽気になった潮岬小学校で、地球儀を使っての授業を受け持った。(参考 読売新聞和歌山版)担任は、ボランティア仲間の武部氏で昨年の四川大地震でも現地に入り、そのクラスの子ども達からの手紙や折り紙の暖かいメッセージは、中国四川省の標高3200mの被災地に届けられ、交流が始まっていた。
いろんな質問も飛び出しながら、あっという間に80分が過ぎた。「来てくれて、ありがとう!!」の言葉が嬉しかった。
1/18/2009 14年の歳月で‥‥阪神淡路大震災から14年が経過し、街の外見は復興したように見えるが、まだ多くの課題が残る。 中越地震の被災地から来てくれたHさん夫妻とノブさんと空き地が点在する長田区を歩く。 1/16/2009 再び神戸へ三ノ宮東遊園地に竹筒が並べられ、「はるかのヒマワリ」の袋詰め作業も行っている。 中越地震や三宅島噴火の被災地、明石歩道橋事故の遺族の方々も集まり始めている。 交流テントではそれぞれの思いを打ち明けて語り合いが始まり、静かに117に日付がかわってゆく‥‥ 12/20/2008 神戸、明石から昨日は、松本での勉強会で、通信関係の今後の新しい展開のヒントをいただいた。
そして、夜に家族と共に徹夜運転で明石大橋の見える大蔵海岸へ到着。朝焼けの中、眠気が襲ってきたが、娘が卒業した幼稚園と保護者の集まりに送り出し、私は来年の1.17の打ち合わせなどの会合に向かう。朝の5:46の暗さと明るくなってゆく被災地の様子を思いつつ、神戸市内に向かった。どの時間に地震が発生するかによって、状況が変わると痛感。
別の会合では、カンボジア地雷撤去で同行した仲間とフィリピンの奨学金、被災地情報交換をしながら、昨日の勉強会のこと、海外や国内通信について、来年への展開について話を聞いた。
117希望の灯の白木さんと、語りあっている。急遽同席希望で来た報道関係の方は、「14年の被災地の現状をどのように伝えるべきか悩んでいる」という。
彼は、終電が無くなったと、「また局で泊まりだ・・・」とヒントを得たようで、帰っていった。
時が止まったままの方が多い。
10/21/2008 羽黒山の山頂にて阪神淡路大震災が無ければ出逢わなかった仲間の一人、スターン草島氏の結婚式に駆けつける。 親族のみの結婚式だが当初予定していた司会者の都合が悪くなり二日前に依頼が来る。 何でも自分でやるスターンは会場設営やBGMをしながらの披露宴は疲労宴の様子。さぁいろいろ?!片付け大変だが、お幸せに!! 先週だけで1700キロは走り回ったらさすがに体力ダウンで寒気がする! 昨日は月に一度の消防団機械点検日だが休ませていただく。 23日は小千谷で中越地震の追悼、24日は柏崎の仮設住宅廻りをする。 高齢の方々を日帰り温泉企画へお連れする手伝いだ。 9/5/2008 訃報が続く 神戸より元神戸元気村にあった24時間体制での緊急通報システム「ベルボックスケアセンター」の関係者の皆さん。
数人には電話で伝えましたが、寝たきりでベルの利用が多かった
当時東灘区のH子さんが一昨夜天に召されました。
今日の11時から神戸市東灘区の斎場で
最後の別れ、火葬が行われます。
Oちゃんが病院に駆けつけました。
あれから13年の歳月が経過する中で、
地震とは、寿命とはなんだろうか・・・
と考えることが多い。
全国に戻っていった仲間たちへ
来年の1.16~17頃にあの公園で再会したいと思う。
「最後に話したかったよ」と思いながら、
亡くなってゆく方々が止まらない。
連絡を待っています。
1/18/2008 甲子園球場20 個分の空き地神戸市では人口は震災前より上回ったが、空き地が目立つ長田区は例外だ。当時、行政主導で決まった再開発事業に反対した方々が大勢いた。 泣く泣く住み慣れた街を後にして、郊外の復興住宅に移り住んだ。 町医者に通う交通費がかさみ、立ち話が楽しい小さな惣菜屋のおかずや漬け物、キムチを買う事が出来なくなる。 「最後の着信があなただったから連絡しました。本人確認お願い出来ますか」と警察から連絡があった話。死後1週間が経過しており、辛い役だったと元仮設住宅の会長。 公営復興住宅では2000年以降、毎年50~70人の方々が「孤独死」で発見されている。 都市型災害の「復旧、復興」を再考する必要はないだろうか‥‥ 原点の長田区で夕方5:46を迎えた。 1/17/2008 生きているのが不思議でした防災未来センターに初めて入り「生きているのが不思議でした」の言葉を見つけた。 今、復興住宅のおじいちゃん宅を訪ねている。 「式に行きたいが身体がいうことをきかないよ‥‥」 13年の年月を感じる。 |
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