ヒューマンシールド神戸 吉村誠...'s profileヒューマンシールド神戸 吉村誠司の地球日記ブログPhotosBlogLists Tools Help

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    9/29/2009

    フィリピン豪雨災害 第②報

    マニラは2日間停電が続き、携帯電話も不通が多かったが、
    今日から電話が通じ始めた。
    メール情報のゆうじ氏は、今夜救援米250キロを
    持ち被災地へ向かう。

    学生時代のAOEというサークルメンバーOBも
    それぞれ動きはじめている。吉村@山形より
    ……………
    (来日していた)ディクシー主教と電話で話をしました。

    教会のメンバーは基本的に元気ですが、教会の周りにいる人々への支援を積極的に行う。
     
    家は浸水が多く、何も持たずに逃げてきた人への衣服、食料、飲み水が足りない。 
    今から彼らはタタロン地区という場所へ古着、インスタントラーメン、飲み水を持っていくそうです。
    教会では引き続き古着回収、ドネーション(インスタント食品を買う)を行う。
     
    未だに家が水に浸かって、学校の体育館やバランガイホールに寝泊りしている人がたくさんいます。
     雨で体の体温が奪われ 特に子供の衰弱が早く毎日死者が増えています。

    (9月29日AM)

    日曜日には雨が上がったものの、いまだ浸水が収まらないマニラですが 
    当初70人と言われていた死者が140人となり、さっきのニュースでは240人と膨れ上がっています。

    泥まみれの家に帰れず、避難場所で過ごしている人が37万人以上いて疲労が増しているのでしょう。

    水にぬれ、十分に雨風をしのげなければ 幾ら南国のフィリピンといえども
    体温を奪われ衰弱してしまいます。

    電気はついたが水が止まったままの地区が多く、料理が出来ない、
    水が飲めないため援助物資に頼らなければならない状態です。

    (9月29日PM)ゆうじ




    フィリピン豪雨災害の被災地情報①

    レイテ島地滑りや様々な災害でお手伝いいただいている、
    フィリピン在住のゆうじさんからメール転載します。

    直後から支援で動き続けている、現地のフィリピン教会
    関係者を通じて、支援を開始します。吉村
    ……………
    死者70人以上の大惨事です。

    メトロマニラはほとんどの地域で浸水
    していました。
    ひざまで、腰まで、胸まで中には建物の
    2階まで浸かっていたところと場所
    によってまちまちです。 

    特に今回はマリキナ、カインタ、パシッグ辺り
    がひどいそうです。
     St.Lukes(神学校)の裏側のどぶ川も水位が
    上がりあの辺の車は修理工場行きです。

    大都市マカティーも道路が川となり、地下駐車場
    に水がたまり車がぷかぷか浮いていました。 

    2階建ての知り合いの家族は2階に避難、
    テレビや小物は運べたものの冷蔵庫やソファーが
    居間に浮いていたのを見てショックを受けたそうです。

    友人の子供(高校生)情報だと、学校の前の道路が
    川となり しかも流れが速くて数人が流されて
    しまったそうで(後に救出済)、
    彼らは10人ほどで手をつなぎ、
    ともに流されないように団体で脱出した。

    マニラ北部のブラカン、パンパンガの田んぼは
    水に沈んでいましたので、今後の穀物の値段が
    上がるのは時間の問題です。

    野菜の産地バギオとバギオ以北は被害を免れました
    ので野菜の値段は上がらないと踏んでいます。

    今朝(28日)は水が下がったところは掃除が
    始まっていました。 

    道路にも、ごみや樹木が散乱して非常に危険な
    状態ですので掃除が始まっています。

     ただキアポ近くの道路はまだ水が引いておらず、
    プールみたいになっています。

    (もちろん、この水はバイ菌がうようよしている
    危険な水なのですが、情報不足のためそんな水
    とは知らず、楽しそうにおよいでいる地元の
    子供たちもテレビで移っていました)。 

    マニラで記録を取り始めてから歴史上一番の
    降雨量だそうです。

    まだ教会建物の被害状況は確認できませんが
    ディクシーさんの教区での教会はもちろん
    家を無くした人たちへの援助が必要です。
     
    食べ物、飲み物、衣服が無く学校で寝泊りを
    している人がたくさんいます。

    ゆうじ(9月28日)



    9/27/2009

    フィリピン豪雨被害と次の地震へ

    恩師がフィリピンへ帰国した翌日、ルソン島のすぐ横で発生した台風16号が首都マニラを直撃し、死者50名、避難者4万人を越える被害となっている。

    現地の携帯電話へかけるが、つながらない。おそらく、各地の教会を中心に支援活動に邁進しているのだろう。

    海が暖かすぎる…

    ●危険性がネットニュースでも指摘されている、東海地震への対策も忘れないように。
    9/26/2009

    山形県鶴岡市より

    「動けば変わる!」市内外からの応援団が集まり始めています! 来月4日告示の準備でバタバタです!


    長野~東京~山形へ


    フィリピンからの恩師を東京まで送って、愛車デリカはしばらく入院(修理)となりました。
    途中で焦げ臭くなり、冷や汗でした。

    台湾から帰国した第2陣と報告、打ち合わせを終えて夜行バスで山形へ!
    来月4日から仲間の選挙選となる。
    いろんな意味で、荷物が重い

    9/24/2009

    第二陣、和平郷博愛村より

    第二陣の佐藤と別行動で調査している近藤から報告が入る。彼女はこの十年間、継続して山岳民族の方々を訪ねている。

    ●台中からバスを乗り継いで、約2時間、ここはタイヤル族の集落。日本統治時代、日本軍として大東亜戦争を戦ったユーカンさんは地震以後に亡くなった。生前は戦争当時の話ををよくしてくれた。ユーカンさんの歩く後ろ姿が今も目に焼き付いている。

    地震の後、相次いだ台風や土砂崩れにより村の半分が壊滅的な被害を受けた。 ちょうど4年前に政府、赤十字、台湾世界展望により、松鶴地区から車で20分ほど離れた土地に住宅が建設され、40世帯がここに移り住んでいる。 日本で5年ほど暮らしていたというシャンさんは言う。 「被害を受けた全員が入れたわけではない。被害の大きさによりここへ入る人が選ばれた。今はこちらに引っ越してきて良かったと思っているが、いつか松鶴地区に戻りたい。必ず戻る!」

     

    子供たちの多くは近くの小学校には通わず、車で20分かけて松鶴地区の小学校へ通っている。 今も松鶴地区に住むユーミンに八仙山の麓を案内してもらった。 日本統治時代に作られた神社の遺跡。日本人が植えた杉の木。当時何を思い木を植えたのか。まだ若い杉の木の幹に手をあて、人の営みや時の流れを思った。

     松鶴地区から10分ほど上流へ車を走らせると、谷関という有名な温泉街がある。 4年前の洪水により被害を受けた建物は現在もそのまま残されている。 手前の建物は地震以後に建設され、6階建ての温泉宿であったが、2年も経たない内に全てを流された。 谷関からその奥の梨山までの道路は今も修復工事が続いており、観光客も少ない。近くのホテルの方に話を聞くと、宿泊料金は地震前の半額だという。

     閉まったままの土産屋。道路復旧まではあと2~3年かかる‥‥



    海外から恩師が我が家へ

    あこがれの地に住みついて‥‥いろんな方々が訪ねてくれる。近所の軽トラ道は、収穫前の実りが豊かだ!

    左は黒姫、右は妙高山を見ながらの好きな砂利道。

    今昨夜、フィリピンから日本聖公会150周年式典参加で来日中の二人の主教を交えての簡単な夕食会、飲み会となった。
    D司祭は、1980年代から私の最初の海外旅行で訪ねたフィリピン以来、ずっと世話になっており、なんと数年前主教さまとなった。
    ピナツボ山噴火やマニラのスラム街、スモーキーマウンテン、少数民族への支援活動など、先頭で尽力してきた方で、様々な地に同行する中で、今の活動の源となっている。

    日本の恩師K崎司祭と共に狭い我が家で、山の料理。

    話題は今のフィリピンの問題点から、懐かしい昔話へといろいろだ。

    9/23/2009

    第二陣レポート高雄縣より

    台湾の南投縣で大地震十周忌に参加し、南部被災地を廻っている第二陣よりレポートが届く。

    (佐藤)高雄縣六亀郷の災害地区回った所の地図です。川を挟んで一周してきました。円で囲ったのが最大被害の新開です。

     

    ●高雄縣の六亀地区へ埔里の林さんに紹介して頂いた彼は大水災から3週間、現地のボランティアに入っており、この日は保険の営業の仕事を抜け、スーツにネクタイの姿で高雄の駅まで迎えに来てくれた。

    愛車は1300cc仕様のスズキのジムニー!高雄駅から1時間半ほどで六亀に到着。ここから奥へは恐らくバスは通じていない。 六亀郷新開地区では土石流の被害が大きく、いたるところで道路が崩落、住宅をも飲み込んでいる。

    新開地区では28人の方が土石流に巻き込まれ亡くなった。 山岳地帯の渓谷沿いに道路が走り、その各所に温泉施設や川下りのレジャー施設が約30ほど点在している同地区での産業は土砂と共に崩壊した。孤立した集落へ物資を運ぶためにとりあえず通した道が続いており、無惨なコンクリートの残骸やあったはずの道路が跡形もなく消えている。

    道路の状況としては、国道であることもあり無理矢理通れるようにしているが、崩れてきた土砂の流れをトラバースするように通している現状だ。傾斜も相当にキツい上、地盤は緩いので、四駆で軽いジムニーはまさに最適の車だった。むき出しになった山の地肌、崩れたものと上流から流されてきた土砂の体積した川、今残る山の樹々の青さとのコントラストはまるで雪崩に色をつけたようだった。土石流で埋まった家はそのままの状態、どうすることもできない。ただ呆然と立ちすくむばかり。

     3階まで埋まった家をユンボで掘り起こした形跡は、体積する土砂に不自然に空いた直径15メートルほどの穴の点在から見てとれた。今も危険な場所の為、対応に当たった方々の勇気と想いに敬服した。住みなれた土地から離れることを余儀なくされた方々の行方が気になる。

    地区全体を視察しおえ、現地の政府観光局の劉さんと食事をする。彼は災害以後その様子をカメラやビデオに納める記録活動やボランティアの支援をしている。今後も欲しい情報を提供してくれることを申し出てくれた。観光が主な収入源である村は回復の見通しが立っていない‥‥

    9/22/2009

    第二陣、台湾の被災地より

    第二陣で台湾被災地を廻っている仲間からメールが届く。あの大地震からまだ10年目だ ‥‥‥‥‥‥‥

    (近藤)9月20日、南投縣の霧社経由で武界へ。所々道が土砂崩れで埋まっていますが、原付で走れる程度。人が住む家などの被害は少ない。 霧社と武界の間にある親和村では、今回の台風で橋が流されています。 武界の村も大きな被害はないようです。 921のあとに再建築された教会では村中の人が集まり、教会の59周年を祝っています。 921が教会の誕生日だとおっしゃっていたことが印象的でした。 霧社から武界までずっと川沿いの道を下りましたが、土砂に埋まった川が無惨です。生き物の気配を感じませんでした。

    武界から中正村へ。ここから佐藤がレポートします。約5年ぶりぐらいで中正村へ入った。武界からの道は霧社、武界の道と同じくところどころ土砂崩れがあったもののスムーズに入ることができた。村全体の様子は台風等の影響は感じず、むしろ5年前よりも平穏を取り戻しているように見える。震災直後より交流のある原住民のおばあさんのところへ向かう。相変わらず一人暮らしのようで快く来訪を受け入れてもらえる。痴呆であることは以前から分かっていたが、病気のようでひどく痩せていた。体が思うように動かないらしく、一人では辛い、さみしいと言っていたのが衝撃的だった。震災直後に亡くなった旦那さんの写真が部屋の各所に飾られており、その前に綺麗な花が生けてあった。それが彼女の日課なのだろうと思う。 切なくて帰り道に泣いた。

     今回、埔里で拠点とさせてもらっている菩提長青村(仮設住宅)にて、震災の10周年式典が行われることになっている。 震災以後立ち上げられた組織で、独り身の老人や経済的に困難な人たちの生活や自立を手助けしている。 組織の変革やスタッフの移り変わりはあったものの設立当初の思いを貫いていった。 彼らの暮らしをみていて、生きていることと生かされることについて考えさせられた。

     長青村から20分ほどのところにある神戸市長田区の鷹取教会から寄贈されたペーパードームで行われた10周年の式典に参加し、再び長青村に戻り、独自で行う式典に参加した。これまで10年間に関わってきたスタッフたちも多く訪れ、自己紹介を交え、当時の状況などを話ながら、入居者の人と交流を交していた。 日付が変わって、9月21日深夜1時47分、ライトを消し、ひとりひとりロウソクを持ち、10年間を振り返った・・・・・

    (焼け野原となった神戸市長田区の鷹取教会に建てられていた、紙のパイプで出来た礼拝堂が、団体「新故郷」の尽力で海を渡り移設された。この地を訪ねる方々は後を絶たない)

    9/21/2009

    情報誌KURA10 月号に!

    毎月20日発売で書店やコンビニに並んでいる「信州を愛する大人の情報誌KURA」10月号、「あこがれの地に住みついてのコーナー」で紹介されています!
    http://www.country-press.co.jp/kura/index.html
    いろんな情報満載ですが、大型書店以外は信州方面での販売限定と思いますので、上記のHPから注文も出来ます!

    阪神淡路大震災に駆けつける前の生き方、今の活動に至る経緯、自宅の一室をセルフビルドで改装して始めた、妻のアロマトリートメントルーム「たなこころ」の詳細が掲載されています。
    (掲載されているFAX番号は合っていますが、電話番号は間違いです。)


    1冊、780円です!

    9/20/2009

    DRT愛知の様子③

    炊き出し隊として被災地に駆けつける富山県のヤマヤさんの機材一式。熱交換機の釜でお湯を作りシャワーも完備! 夜は各地の水を飲み比べしながら、座学!?となりました!翌日はキャンプ場からの依頼でコンクリート管切断のエンジンカッター作業となっています。また、当日の講習の様子が読売新聞愛知版で紹介されました。http://chubu.yomiuri.co.jp/news_b/bosai090920_1.htm



    ●主催のあかつきボランティアネットワーク東海支部 の皆さんご苦労さまでした!!
    http://akatsuki-blog.jpn.org/main/blog/2009/09/drt2009.html

    DRT愛知その②

    災害救助講習会の様子です!



    9/19/2009

    災害救助講習会のDRT 愛知

    気温30℃の中、瀬戸市のキャンプ場で40名を超える参加者で災害救助講習会が行われています! 倒壊家屋を想定した模型からの救助をチェーンソー、ジャッキ、テコの応用、クラッシュ症候群の解説と止血法、エンジンカッター、エンジンビック、特殊なスプレッダーなど実演と実技が行われました。 昼飯、夕飯も富山のヤマヤさんの炊き出し隊が奮闘中! これから泊まり隊と振り返りと懇親会、座学です!





    9/18/2009

    タイヤが破裂した!

    明日の午前中から行われる災害救助講習会のDRT愛知へ向かう途中、高速道路で地震と思わす揺れでタイヤが破裂した! 常に積んである油圧フロアジャッキ技でクリアしたが、古く側面に傷が入ったタイヤは危険と再認識! 山形県から長野経由での移動に悲鳴を上げているのは自分だけでは無いようだ‥‥

    9/17/2009

    再び山形県鶴岡より


    当選祈願のだるまに片眼を書き込む草島氏。市議会議員10年間の最後の議会に向かい、辞職願いがまもなく受理される。
    日本の政権が代わった歴史に残る昨日、農家や若手経営者、支援者と夜中までいろいろと語った。先日も、全国のブナ林を撮り続けている写真家の方も鶴岡周辺の豊かな山々と変わりゆく景色のことを伺った。

    岩手宮城内陸地震で被災したくりこま高原自然学校の佐々木さんも激励に駆けつけた。「動けば変わる!」の言葉に同感していた。
    平成の大合併で大きくなった栗原市でも、合併の弊害が見え始めているという。


    走り続ける候補者のサポートで調査表に記入手伝い。草島氏はパソコンは得意だが、字が下手なのは有名!?10月4日告示11日投開票日に向けて、多くのサポーターを募集している!!草島氏のブログまで


    運動会!

    山形県から地元へトンボ帰りで娘の運動会!
    9/15/2009

    山形県鶴岡の竜巻?

    神戸時代からの災害ボランティア仲間の草島氏が次期の市長選挙準備をしているので、帰国後に山形県へ向かった。その朝は大荒れの天候で、竜巻かダウンバーストの突風で鶴岡市鼠ケ関の国道7号線沿い海岸線で被害が出た。車も動き、塀が倒れ、温室や瓦など飛び散っている!さっそく草島氏と現場調査で被害のあった方々に話を聞いた。



    9/13/2009

    台湾被災地より帰国、そして‥‥

    現地のNGOや四川省に支援で入った赤十字関係者と情報交換して帰国の途へ‥‥ 台北と被災地の温度差が激しいが、多くの方々が心を痛めています。

    今後の台湾被災地支援について
    ●賛否ある山岳民族の方々の集団移転問題について、台湾中部のNGOや教会の方々より情報をいただきながら、支援策を模索する。
    ●日本とは「霧社事件」前後で関係も深いタイヤル族の方々が住む霧社の被災した施設への復旧サポート計画(2次隊が調整予定)
    ●被災した観光地への訪問企画立案。(知本温泉、廬山温泉、台湾南部など)

    (高雄懸 小林村手前にて)合掌
    9/12/2009

    仮設住宅が終の住処へ

    1999年9月21日の台湾中部大地震「921集集大震災」から、この21日で10年目となる。
    4年前、この仮設住宅の土地使用が期限切れとなる前に、この地を訪ね、村長さんと
    行き場の無い高齢者の為にも存続し、可能であれば「終の住処」と出来ないかと話をしたことがある。

    ひとつの手法として、地震後の高齢者の生活を研究する大学のモデル事業として
    この仮設住宅を存続させるということだ。

    現在、31世帯が暮らしている仮の住居だったところには、様々な工夫がされて、
    交流の場となっている中庭兼通路には、温室屋根下に果物のランブータンが育ち、
    やさしい空間を作っている。

    今回の八八大水害で多くの仮設住宅が建設されることになり、再びこの仮設住宅に
    多くの報道陣が詰め掛けた。新しい場所での新築や改築費用も負担できない世帯に
    とっては、常駐でスタッフが寝泊りし、共同で食事配給もある暮らしは助かっている。

    この仮設住宅の特徴は、母屋の寄贈が、仏教関係の菩提園で建設や運営にYWCAや台北YMCAなども
    協力して、一般のボランティアも整地から建設、ペンキ塗りのサポート、そして民芸品作成など関わっていた点だ。

    この仮設住宅に、元日本兵で戦ったタイヤル族のおじいちゃんがいたが、3年前に亡くなっていた。
    もっと昔の話を聞きたかった想いが込み上げてきたが、遅かった。

    この地で20日夕方から、10年間を振り返り、追悼記念式が行われる。

    9/11/2009

    南投縣の被災地へ

    プーリーから霧社へ入ったが、何度か訪ねていた施設は台風で壊滅的被害を受けていた‥‥ さらに奥地の廬山温泉では、ホテルや食堂の1階部分が埋まっている。