ヒューマンシールド神戸 吉村誠... 的个人资料ヒューマンシールド神戸 吉村誠司の地球日記ブログ照片日志列表 工具 帮助
2007/10/30

神戸の高校へ

長野から夜行バスで大阪梅田に到着。
今日、明日と神戸市の男子高校での授業を受け持つ。
「災害救援現場の話、そして命について」だ。
 
神戸に至る経緯、そして国内外の被災地、
湾岸戦争からイラク戦争に使用されている
劣化ウラン弾の被爆、被害者の状況も話す。
 
自分が高校生の頃、
何を思って日々を過ごしていただろうか・・・
2007/10/23

中越地震10.23に想う

●先日の週末は、四国の四万十塾の応援で
上高地から流れ出る犀川のカヌートレックをした。
中越地震やパキスタン大地震で800張りのテント、寝袋を
コンテナでの国際便で届けてくれたコールマンジャパン社の
研修キャンプと川下りトレックだった。
 
大雨と冷たい川にもめげずに、現場で自社製品の使い方や
アウトドアのあり方、深夜までの将来への課題ミーティングなど
スタッフ一人一人の個性が光る時でした。
 
●犀川~千曲川、そして信濃川へ
カヌーでは、20キロほど下った所に東京電力のダム。
そこでトレックは終了し、私は下流の中越へ向かう。
 
遅いとはいえ、紅葉が始める山道を抜け、
10.23が近づく小千谷市へ。
震災写真展は、何百枚もの写真がファイルで見れて
この3年間の事、各地の被災地での活動の様子がわかる。
 
という記事が新潟日報10.21に出た。
3機の大型ヘリコプターで避難を余儀なくされた
小千谷市塩谷も49世帯が20世帯へと減っていった。
 
全11世帯の集団移転を決めた十二平には、
立派な復興道路が建設され、ダンプが行き交う。
その横に作業小屋を作って畑に通う住民がいる。
私もこんな道が開通するとは思っていなかった。
 
同じ小千谷市内とは言え、山奥と平地での
生活はあまりにも違う。
高齢の方の多くが平地に降りることになった
塩谷でも、心の隔たりが残るようだ。
 
毎年、歳を重ねてゆく方々、特に雪で閉ざされた
地震前の中山間地。日々の手作業から離れる
生活が続くとどうなるだろうか・・・
 
様々な想いもあるようだが、地震前の暮らし、
直後の助け合い、避難所での奮闘、ボランティアとの出会い、
豪雪との戦い、そして別れ・・・
 
5:56塩谷で黙祷する。
作るから創るへがんばろうよIMGP3074
!!
 
 
 
 
 
2007/10/18

神戸 御影公会堂へ

来年の1月17日まで、3ヶ月になる日、
神戸の大学で授業をすることになり、
戻ってきた。
テーマは「いのち」。
 
昭和初期に建てられて、地震前には
改築計画もあった(地震でもビクともしなかったので、
改築計画は無くなる)
御影公会堂の会場予約は2ヶ月前からで残念。
さらに昨夜は、歴史を感じさせる地下の公会堂食堂も
臨時休業でさらに残念。
久しぶりに、灘区おとめ塚の銭湯に入って
当時を思い出す。
 
12年の月日で、外見は変った神戸。
しかし
こころの揺れは終わっていない。
2007/10/8

歴史のある小千谷闘牛

●陽射しが暑い柏崎から、小千谷へ向かう。
今年の小千谷闘牛は、この10月7日と11月4日のみとなった。
地震からの小栗山闘牛場修復を終えて、
小さな集落に歓声が沸きあがる。
 
特に、東山小学校の「牛太郎」には、沢山の子ども達の
応援が場内に響き渡り、かなりがんばっていた!
(以前、仮設の白山闘牛場では、すぐに逃げていたこともあった)
かなり満員に近い観客に、武さんも嬉しそうに解説してくれる。
 
あちこちで、収穫を終えた田畑の香り、
越冬小屋に鯉の運び入れなど作業が進んでゆく。
あの日、中越地震が発生した
10月23日は、そんな作業もひと段落した直後に発生。
 
停電、孤立、断水、野池の崩壊などで
沢山の鯉が死滅していった。
塩谷に二人の娘と訪ね、慰霊碑に線香を添える。
いろんな方と久しぶりの再会をする。
 
●今年も、小千谷市内で写真展を行う準備が進んでいる。
◇会期:2007年10月15日(月)~23日(火)
◇場所:小千谷市本町まちの駅
◇主催:小千谷青年会議所
◇主管:SVTS風組
◇協力:ヒューマンシールド神戸、あかつきボランティアネットワーク、日本財団ほか
主管して写真を集めてくれているのが、
SVTS【風組】のよーこさん。ご苦労様です。
中越に駆けつけてくれていた皆さん、
また集ろう!!そして、備えよう。
(写真 小千谷の闘牛に挑む静岡の猛犬!?)
2007/10/2

北秋田の豪雨、その時

●阿仁川から米代川への約60キロ捜索の捜索と、
阿仁前田と大渕地区での泥だし作業で連日ヘトヘトに
なっていた夜、行きつけの銭湯「あゆっこ」
共に汗を流した消防団の方と再会する。
 
彼らは、団員の判断で側溝掘りには小型ユンボが
必要だと団員の重機オペレーターと機械を
持ってきてくれており、消防ポンプの水力と
併せて大活躍していたのだ。
 
このポンプ車は、前夜の会議では、
「火事などの緊急事態ではないと出せない」という
行政の判断に、日本財団の黒澤さんが
「過去の豪雨被災地を支援した中で、ポンプ車の威力は
川から水を吸い上げ、水力で清掃する時にも活用できる
という訓練にもまりますよ」と助言が実ったからだ。
 
あの土日に、地元の消防団が来ていなかったら、
もっと作業が難航していただろう。
その夜、銭湯の食堂で「一緒に一杯やろう」と当時の話を聞いた。
 
●緊急が伝わらない放送
消防団には、上流の森吉ダムが今の放水量では、
ダムが危険になるので、3倍放水をすることが伝えられた。
そして、野外に設置されている放送で
淡々とした口調で「・・・ダムが放水するので、危険ですので、
避難してください・・・」と流れたという。
 
その時、阿仁前田周辺では確かに雨は降っていたが、
1階が水没することになるとは誰も住民は予想できなかったので、
仮に一階が床下浸水でもしたら大変と思う家は、
せっせと2階に荷物を運び上げていたり、逃げずに
いた世帯もあったという。
 
そして、急に水位が上昇して、あっという間に
逃げる事が出来ないほど阿仁前田地区は水没。
車や耕運機も何台も水没してしまったのだ。
家で逃げ遅れた住民が何人も2階の窓から、叫んだり
懐中電灯で合図をするが、助けに行けない。
「助けに行きたくっても、船もカヌーも無いし・・・」
と濁流の川向こうや高台にある駅から立ち往生していたという。
 
そして「あんな、緊急が伝わらないのんびりとした
放送じゃだめだね、もっと逃げてください!!と
叫ばないとね。我々は洪水になることを感じていたよ」と語る。
 
あの橋に流木が絡んで、ダム状態にもなったという
話にもなった。確かに、欄干の高さと同じ水量が
地区一帯に溢れていたのだ。
 
豪雨の縁で災害ボランティアと出逢った消防団員の
おやじさん達。「ありがとうね!」と翌早朝に自転車で
車を取りに戻って来ておりました。寝袋車中泊もしやすい
朝は12℃まで冷えてきておりました。
 
●追伸:地元の方同士が話をしていると、方言ばかりで
何を言っているのかほとんど理解不明。さらにどこかの地方からの
ボランティアが入ると多国言語救援隊状態!?
 
 
2007/10/1

箱根の震度5強

●いきなりだった。
10月1日、緊急地震速報が運用開始した日、
(一般には、午前9時からなので間に合わなかったが)
そのシステムに間に合わないP波とS波がほとんど同時に
到達した震源が浅い揺れ。うーん・・・
私が動く目安にしている、震度6強だったら、今頃どのように行動していただろうか・・・
 
その日は、カレンダー通りの予定ではなく、昨日の続きの今日は来ず。